魁!日ユ同祖論フルボッコシリーズその8
「大和民族はユダヤ人ではなかった」の巻
前回の記事(魁!日ユ同祖論フルボッコシリーズその6)で
ごく一部のみ紹介したが
「大和民族はユダヤ人だった」という日ユ同祖論の本がある。
ヨセフ=アイデルバーグ著 中川一夫訳 1984年12月たま出版
アイデルバーグは日ユ同祖論を主張した元祖という訳ではないが
私が何箇所か覗いてみたブログ記事等では
ソースがどうもアイデルバーグらしいという事が複数回あった。
しかも日ユ同祖論信者は、原典を読み解く能力もやる気も
全く無いように思われる。
コピペ、丸写しをしている率が高いせいだと思うが
全く同じ間違いを繰り返している人が多い。
そこで無能な日ユ同祖論信者は無視して
源流、元祖を叩きたいと考えた。
日ユ同祖論の源流、元祖は誰なのか?というのは
現時点で判明している範囲内では
Nicholas McLeod 別名 Norman McLeod (1868-1889)
スコットランド人の宣教師ノーマン・マクラウド
これはwikiにも出てくる。英語版wikiにも記載がある。
このマクラウドは1875年に
"The Epitome of The Ancient History of Japan"
(cover title: Japan and the Lost Tribes of Israel)を著し
長崎で出版(長崎日の出書房)日ユ同祖論を唱えた。
(注意:長崎はバテレンの町である
たとえば、島原の乱の天草四郎 他にも色々あるがまた追々)
日本人で日ユ同祖論を主張した人なら
佐伯好郎=さえきよしろう(1871-1965)→wiki
もしくは
酒井勝軍=さかいかつとき(1874-1940)→wiki
これらが日ユ同祖論を主張した最初期の人々。
尚、両方共キリスト教徒。
佐伯は1890年(?)19歳で英国聖公会の東京築地教会で受洗
酒井は1888年14歳(?)で受洗。
本が出版された時期だけを比較するなら
佐伯の方が先に日ユ同祖論を主張したようだ。
しかしこの佐伯は弟子の服部之総に、
「日ユ同祖論を主張したのは、
ユダヤの大資本家が日本に投資してくれるように、
日本に注目してもらうためだった」云々と語った。
早い話が日ユ同祖論はネタ。単なる炎上商法。
(服部之総「旧刊案内」『原敬百歳』所収。)
また、マクラウドにしてもそれ以前の中ユ同祖論に影響を
受けていると思われるので
本当に元祖、源流なのかというと疑問だ。
【補記】 英語版wikiの日ユ同祖論には
イエズス会のJoão Rodriguezジョンロドリゲス
(1561-1634)が、日ユ同祖論の元祖で
1608年には日ユ同祖論を主張していたと書いてある。
しかし、ロドリゲスは日ユ同祖論だけでなく
同時に中国に対してもユダヤと同祖と主張していたらしく
(中ユ同祖論)
また、大航海時代は新しい国を見つける度に
ユダヤ10部族に認定してそれをネタにキリスト教布教するのが
ヨーロッパ人の常套手段だったとも書いてあるので
結局どこが元祖なんだか・・・。
やはり組織的なものと考えてバチカンかイエズス会あたりか?
ただ、イチバンゲームの勝者が誰であれ
結局はキリスト教徒の悪巧みという点には変わりない。
佐伯、酒井、ロドリゲス、マクラウド全てキリスト教徒だ。
悪事の源流を辿るとキリスト教徒に辿り着く率が異常に高い。
今回は、私が見かけた範囲内では名前が複数回あがっていた
アイデルバーグの著書にあたり、彼の主張する
「いつも科学的に証拠をあげる」がどれほどのものか検証する。
買った本は上で紹介した「大和民族はユダヤ人だった」
選定の理由は、これがアマゾンで安く叩き売られていたから。
まずは第一章。古代ユダヤ10部族が行方不明になった経緯や
それを追いかけてアイデルバーグ自身がイラン北部を調査した時の話等が書かれている。
しかし、この調査は本当にやったのだろうか?カラ出張ではないのか?
まず写真の1枚すら掲載されていないというのが怪しい。
ちょうどヘブライ文字とカタカナの共通点を語る時に
ドサクサ紛れでありもしない文字を捏造するのと同様
「バレなきゃいい。どうせ誰もこっち方面の知識はないはず」
とタカをくくっていないか?
例えばアイデルバーグが
「京都の護王神社の見習い神官になった」のは1974年。
「神官」時代の写真も掲載してあるし
神社名もちゃんと公開している(護王神社)。公式HPもある。
参考:護王神社公式HP
しかし、イランでの調査は一枚も写真が無い。
アイデルバーグが死んだのは1985年。
「大和民族はユダヤ人だった」が出版されたのは1980年。
また、wikiによると、
1974年までは「イスラエルの巨大海外プロジェクトにたずさわる」
とも書いてあるので、
調査に行ったとすれば1974年から1979年の間の可能性が高い。
当時のイランは今のイランとはかなり違う。
イランは1979年1月にイラン革命が起きるまでは親米政権だった。
現在のイランはクソラエルとはかなり険悪な関係だが
イラン革命以前=アイデルバーグが調査をした当時は
そんな事はなかった。
入国出国や写真撮影に何かと制限があったとは思えない。
なのに写真の一枚すらナシ。しかもそのイランの田舎で
沢木耕太郎ばりに地元の人とわざとらしく心温まる交流ってやつをして
「イランの北東、現在のアフガニスタン国境近くのマシュハドという
町に少数のイスラム系ユダヤ人社会があった」(P21)と聞いた結果
なぜだか突然日本を調べたくなったらしい。
脈絡なさすぎ。突然すぎ。意味がわかりません。
一応P25ではバハラ地方(現オマーン)の言い伝えがその
日本を調査する動機云々と書いてあるが
バハラ=オマーン=アラビア半島の東の端。
では、イランもアフガニスタンも関係無いという事ではないか。
現在のクソラエルからバハラまでは
直線距離で2000キロほど離れている。
アイデルバーグ自身の主張によると10部族は
中央アジア経由で東へ行ったらしいので
益々アラビア半島の東端なんか関係がない。
イランがどうとかオマーンがどうとか無関係な話ばかりして
アイデルバーグは一体何をやっているんだろう?
もしかして前回記事でも紹介した
「14年間、私は私財を投げうってこの研究に打ち込んで」
というのはモサドのパシリ・バイト君として
コキ使われていたという事か?
私財を投げうったなんて美談めいた言い方をしているが
単に交通費自腹のバイト君だったというそれだけの話ではないのか?
(本書の裏表紙にも元クソラエル陸軍少佐と堂々と書いてある)
交通費が自腹である腹いせに、カラ出張をしたのではないか?
カラ出張でイランだのオマーンだの無関係な所で物見遊山ばかり
(え・・・?まさかクスリ・・・?)
していた結果、モサドだかアミシャーブから怒られて
日本に行けと命令されただけじゃないのか?
だから日本に行く動機が全く書けないのではないか?
・・・このへんの事情は「信じるか信じないかはあなた次第w」
ではお約束のひと言
「黒幕はキリスト教徒!」
(完)